大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

最高裁判所第三小法廷 昭和53年(あ)1394号 決定

本籍

熊本市池上町一三〇〇番地

住居

熊本市南千反畑町一三番一一号

会社役員

松村四郎

大正四年四月三〇日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、昭和五三年七月一一日福岡高等裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から上告の申立があったので、当裁判所は、次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人葛西宏安、同服部信也の上告趣意のうち、判例違反をいう点は、原判決は所論のいうような判断を示しているとは認められないから、前提を欠き、その余は、事実誤認、単なる法令違反の主張であって、すべて刑訴法四〇五条の上告理由にあたらない。

よって、同法四一四条、三八六条一項三号により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 横井大三 裁判官 江里口清雄 裁判官 高辻正己 裁判官 環昌一)

昭和五三年(あ)第一三九四号

被告人 松村四郎

弁護人葛西宏安、同服部信也の上告趣意(昭和五三年一〇月一二日付)

第一、判例違反について

原審判決理由二、(一)(記録三二〇一丁表)に株式売買による所得についてのほ脱犯における故意は「取引の大勢について認識があった」ことをもって足りるとするのは最高裁判所の判例のない場合の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断である。

一、所得税ほ脱犯における故意についての高等裁判所の判例

所得税ほ脱犯の犯意については昭和三九年二月二九日札幌高裁判決(税務訴訟資料四二号一三二頁)において「ほ脱犯の構成要件はいうまでもなく「詐欺その他不正の行為により」「所得税を免れた」ことであり、その犯意は右事実を認識することである。しかしてその所得税を免れることの認識としては、一般の場合の犯意と同様、いわゆる概括的認識をもって足りると解されるから、確定申告の当時犯人において計数的に正確な所得額ないしほ脱額について認識しなくとも申告にかかる所得額が真実の所得額よりも少ないことの認識があれば、ほ脱犯の犯意として欠けるところはない。」とほ脱犯における行為者即ち申告者の真実の所得額と、申告にかかる所得額とに対する認識の問題につき明解に判示している。

そして右判例は所得額の認識につき所得税の確定申告者が計数的正確さは必要ではないが申告にかかる所得額と真実の所得額とを認識し、前者が後者より少ないことという程度の認識を持っていることが必要であることも判示しているのである。

そして右所得額の認識の点につき最高裁判所の判例は未だないが、他に東京高裁昭和三五年二月二日判決(税務訴訟資料四六号一七頁判示(3))東京高裁昭和四七年四月二五日判決(税務訴訟資料六七号五五八頁)もほ脱犯の犯意につき右札幌高裁と同旨の判例である。

二、原審判決における故意の認定についての判示。

そこで本件の原審判決におけるほ脱犯の故意についての判示を検討すると控訴審における弁護人の控訴趣意書第二点(一)に故意の問題についての主張がなされ「本件ほ脱行為においては売買の直接の担当者である被告人の妻スミエには株式売買による所得について金額は勿論所得があった事自体について認識がなく従って、これと共謀の関係にないと第一審で認定された被告人にも昭和四七年中の株式売買による所得の存在については認識がない」と主張しているのに対し原審判決は判決理由二項(記録三二〇一丁表)において「個々の取引については具体的に知らなかったとしても、取引の大勢については認識があったと認めるのが相当である」と取引の大勢につき認識があればほ脱の犯意ありと判示している。

三、原審の判示する「取引の大勢を知る」とは株式等売買における所得の存在を認識することではないこと。

では原審の云う「取引の大勢」とはいかなるものであるか若しこれが前記札幌高裁の判示する申告所得額と比較認識されるべき「真実の所得額」(勿論計数的な額としては必要なく、申告所得額と大小を比較出来る程度の認識でよいが)というのであれば右札幌高裁の判例とも合致するのであるが若しこれが妻スミエが株式売買を行なっていたこととか、単に取引の概略とかを指すものであって真実の所得額を示すものでないとすれば前記札幌高裁の判例に違反することとなると考えられるのである。

そこで原審のいう「取引の大勢」とはいかなるものか、原審が被告人が取引の大勢を知っていると認定する根拠として説示する四つの理由について以下検討する。(記録三二〇〇丁)

原審はまず

1 「被告人は昭和三七年ごろから証券の取引を妻スミエにまかせていたが、昭和四一年ころには被告人自ら株式の取引をしていること。」を挙げるがこれは被告人の昭和四七年における株式売買による所得の認識とは云うまでもなく何の関係もない。

次に挙げる

2 「右スミエが野村証券、大和証券、新日本証券に預けていた証券の価額はそれぞれ数千万円または一億円をこえるものであったこと。」についてはこれも被告人の昭和四七年における所得の認識を証明するものではない。

次の

3 「野村証券熊本支店営業課長であった尾崎斉がスミエから預かった株券を無断使用した件について被告人はその弁償について野村証券側と交渉し昭和四七年七月一八日ころ株券で弁済を受けることになったが預託時(昭和四六年一一月二四日ころ)の価額は三、三〇〇万円位(買付価額は三、五〇八万円)であったものが右弁済時には五、〇一五万円位にも上昇していること。」についてはこれも被告人の昭和四七年の所得についての認識とは結びつかない。

株式の売買益は買入れた株式を売却した時点ではじめて売買益として把握されるものであって被告人の右場合のごとく預けてあった株式の使い込みをされ、その後同じ株式の弁償を受けてこれを持っているということでは未だ売買益は発生せず従って所得も発生しないのである。

従って被告人が野村証券から株式の弁償を受けその時価が預託時より上がっていたという客観的事実は被告人の所得が発生したとの認識があったことの理由にはなりえない。

原審はこの点「価額があがっていたこと」と云いあがっていることを認識したこととは云ってないが仮りにあがったことを認識していたとしても同様である。結局事実は被告人の所得の存在の認識と結びつけることは出来ないのである。

被告人が右弁償を受けた株式について所得ありと認識する場合とは右株式の買入れ時の価額を知っており且つその株式の売却事実と売却価額を知り売買の差益ありと認識する場合である。

次の

4 「本件につき熊本国税局の調査が始まった昭和四九年二月ころ被告人は野村証券熊本支店総務課長山本知義に対し自分は取引内容は知らないから取引内容に関する書類は出さないでくれと頼んでいること。」については右事実によって被告人が株式売買の取引自体を隠そうとした事は認められるが被告人が株式売買による所得があることを認識していたとの根拠とはならない。

以上のごとく原審の挙げる四つの理由はこれを個別的に検討すると、被告人の株式売買による所得の認識の有無の証拠とはならず又この四つを綜合して考えても到底右認定の根拠となるものではない。

原審は以上のごとく株式等の売買による所得の存在についての認識とは無関係の理由を根拠として「取引の大勢についての認識」を認定しているのであるから原審のいう取引の大勢の認識とは株式売買の所得についての認識を指すものではないと認められるのである。

そこで原審の云う「取引の大勢についての認識」とはその文言のとおり漠然と取引の概略についての認識を云っていると判断されるのである。

以上のごとく原審はほ脱犯の故意につき真実の所得額についての認識の必要性を要件としていないのであるから前記札幌高裁の判例と相反する判断をしたことは明らかである。

第二、原審には判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があり、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると思料する。

本件は、所得税法違反事件として、専門的技術的な事実認定の問題、法律解釈の問題をかかえると共に、膨大な量の証拠が存在しているため、事件の本筋と枝葉末節の区別が明らかでなく、なり易いと考えられるが、原審は本件事案の本節を見失い根本的な誤りを侵していると思料されるのである。

そしてここでも亦ほ脱犯の故意の問題となるのであるが、これについての原審の重大な事実誤識に関し以下述べる。

一、被告人の所得税法第二三八条違反の故意を証明すべき証拠が存在しないこと。

即ち、所得税法第二三八条は「偽りその他不正の行為により第一二〇条第一項第三号に……規定する所得税の額につき所得税を免がれ……」と、規定するが、右規定も刑事罰を課する規定であるから、云うまでもなく刑法総則の適用を受けるものである。

そこで右規定につき故意の問題を考えてみると、刑法第三八条第一項の「罪ヲ犯ス意」とは、所得があることを知り即ち所得税を支払うべきことを知りながら偽りその不正の行為によって所得税を免かれようとする意思である。

そこで右のごとき最も基本的な故意の問題について本件を検討すると、驚ろくべきことに被告人に株式売買による所得が存在したとの認識があったとの事実を立証する証拠は存在していないのである。

このように述べると、あたかも鬼面人を驚かす類の説かと感ぜられるかと思うが。どうか、以下述べるところを考慮され虚心に本件記録を検討していただきたいと切望するものである。

二、所得税法第二三八条一項に違反する故意とは真実の 得の存在を知り、且つその認識と異なる過少申告を行なう意思であること。

そして、原審及び第一審において被告人の右所得に関する認識と過少申告の意思についてこれを証明する証拠が存在しないこと。

所得税法第二三八条一項に云う偽り、その他不正の行為あり、とするには当然のことながら行為者に真実の所得についての認識が存在することが大前提である。

勿論所得額の認識と云っても正確な数字を知る必要はないのであるが、当期に株式売買による所得が存在したか否か程度の認識は不可欠のものである。

そして、所得が存在したとの認識があるにもかかわらず、これを隠蔽し所得金額を過少に記載した申告書を提出することが要件となるのである。

そこで、本件で問題となっている被告人の昭和四七年度中の株式等の売買について所得が発生しているか否かを計算すれば確かに所得は発生しているのである。

しかし所得が客観的に発生していることと、被告人がこの発生した所得を認識していることとは別問題なのである。

問題は被告人が株式の売買により発生した所得が存在することを認識していたか否かである。

本件記録を検討して根本的な疑問が生ずるのは、原審及び第一審とも、被告人の昭和四七年度中の株式売買による所得について被告人がこれを認識していたか否かが、殆んど問題とされていない点についてである。

この根本的な問題点が忘却され、被告人の妻が株式等の売買の直接担当者であったところから被告人の妻の売買行為を被告人が知っていたか否かが争点とされ、ここに立証の焦点が合わされ、これに終始しているのである。

第一審の検察官の論告の冒頭部分の「本件の争点は唯一に被告人の犯意の問題、換言すれば、被告人において妻スミエの株式の売買の事実を知っていたかという点にある……。」

というところに端的に原審及び第一審において立証の問題としたところが現われているのである。

しかし右に言う被告人の犯意の問題とは単なる妻スミエの株式売買の事実を被告人が知っていたか否かではなくて妻スミエの株式売買の昭和四七年度一年間における結果として所得が発生していたことを被告人が知っていたか否かということなのである。

右のごとき根本的誤まりが、第一審、原審を通してまかり通り真実の争点は看過されて、しかも被告人は有罪の判決を受けて現在に至っているのである。

本件が、所得税法違反という、極めて、技術的な法律に関するものであるが故に、複雑な問題をかかえるが、しかし刑事事件として、犯意等の基本的な問題は全く通常事件と同一のものである。

犯意があるとするにはいかなる考え方からしても最少限犯罪事実についての認識は必要である。

そして本件の場合犯罪事実の認識とは、株式の売買による所得の存在についての認識とこれに反して過少申告を行なうことについての認識である。

しかし本件の原審及び第一審は被告人の株式等の売買による所得の認識については何等認定せず、いや、この点の審理さえもせず、従って申告書に記載された所得額が真実の所得額に比べて過少であるとの被告人の認識があったか否かについても全く問題とせず、ひたすらに被告人の妻スミエの株式売買について、被告人がこれを知っていたか否かを問題として審理が行なわれ、判決が下されているのである。

本件においては検察官、被告人とも認めるところであるが、株式の売買は直接は被告人の妻が行なっていたという客観的事実がある。

そして被告人の弁解として本件株式の売買は妻が行なっていたものだから被告人は知らないという主張があったため、捜査の当初から査察官、検察官は、右弁解をつぶし被告人が妻の株式売買行為を知っていたことを証明することに捜査の重点を置き、これがひきつがれて、公判においてもこの点の立証に終始したのである。

そして妻の右取引行為を被告人が知っていたことを立証すれば被告人のことさらな過少申告という犯罪事実が立証されるという錯覚に陥ったのである。

いわば、被告人の弁解にふりまわされ、その弁解さえつぶせば、問題はつきると考えたところに欠陥が存在したのである。

三、本件のごとく株式等の一年間にわたる多数の売買の結果という複雑な問題について、単に売買の事実を知るのみでは、その結果としての所得までは知り得ないこと。

本件の問題点とは、前述のごとく被告人が妻の株式売買行為を知っていたか否かではなくて株式売買の結果として昭和四七年においては所得が生じていることを知っていたか否かということなのである。

そして、これが単純な事実問題であれば売買行為の有無を知ることは、その結果としての利益発生の有無を知ることとなるのであろうが、本件は、株式等の昭和四七年一年間にわたる野村証券、大和証券、新日本証券の三社における合計八一一回におよぶ売と買とについての問題なのである。

単に売買行為があったことを知ったからといって、右のごとき取引の全体の結果として所得が発生したか否かを知りうるものではない。

勿論株式等の売買による所得の存否の認識については、右のごとき計算の結果の数字までは必要ないこと前記第一の判例違反の項で述べたとおりであるが最少限度、当該年度は株式の売買によって所得があったという程度の認識は絶対に必要であると考えるのである。

そこで株式の売買による所得を計算する方法を検討してみると、現物取引の場合は当該年度内に売却した各銘柄についてそれぞれの売却価額からそれぞれの買入価額と、売却、買入の各手数料と取引税を差引いて計算し、信用取引の場合には右に加えて買の場合は、その期間に応じた利息の支払、売の場合はその期間に応じた利息の受取、稀に所謂、逆日歩のついた場合にはその利息の支払という計算をして損益を計算し、そして右のごとくして計算した全銘柄の合計から更に経費として支出したものがあればこれを控除して一年間における所得が算出されるのである。

右のごとき複雑な計算を必要とする株式売買による所得額なのであるから、その概略即ち損失か利益か程度の認識すら或る程度意図して検討しなければ判明しないと思われるのである。

しかし本件の場合には売買の担当者である被告人の妻スミエについても、又被告人についても、右の程度の認識をうるために意図して行為した、供述証拠も、物的証拠も存在しない。

そこでこれについて証拠を検討すると、先ず被告人については捜査公判を通じて、被告人の妻の売買行為について知っていたとの点に立証の全てが行なわれており、被告人の株式売買の結果としての所得の存在についての認識の有、無については証拠が殆んどない。

被告人の昭和五〇年九月二六日付査察官に対する質問てん末書、問八に「株は動かせば損をするものだと私は思っておりました。」昭和五一年二月二六日付検察官調書第五項「昭和四九年に税務調査を受けた後、証券取引による損益を知るため野村、大和、新日本の三証券会社に対し損益を出すよう頼んだ。第一審の第一二回公判における被告人の供述(記録三〇八五丁)昭和四七年の前後、昭和四六年、昭和四八年の株式等売買による欠損も知らない。

以上被告人が株式の売買による損益について本件当時は知らなかったとの証拠のみが存在する。

又被告人の妻スミエについては、この点に関する証拠としては、検察官調書、昭和五一年三月八日付第二項に「一つ一つの売買についてはどれ位儲かったか、あるいはどれ位損をしたかということは分っておりました。

しかし一年間を通じてどれ位儲かったか或いはどれ位損をしたかということは全然分かりませんでした。」と述べ、又第一審の第一一回公判の証人尋問第一〇八、第一〇九の問答に、問、所得税法違反ということですが、昭和四七年度、つまり昭和四七年一月一日から、同年一二月三一日迄の所得だが、その中に証券取引の利益があったと思いましたか、答、いいえ。計算した事もありません。株も儲かることもあり損することもあります。とあるのみである。

以上のごとく被告人及び妻スミエの供述乃至証言がある。

そして証拠物は存在しない。

そして右供述乃至証言を除き客観的に検討しても前記のごとく三証券会社にまたがり一年間、八一一回行なわれた売買(正確には昭和四七年中に売却された株式とこれに対応する買入れ分を昭和四七年及びそれ以前について探して対応させる。)につき所得を計算することは、意識的に計算しなければ不可能であり、概数としても損しているのか得をしているのかさえ知ることは不可能であると考えられるのである。

以上述べたごとく本件のごとく多数回にわたり膨大な数量の売買をした場合には、単に売買の存在についての認識だけでは、その結果としての利益の存在についての認識があったことに対する立証とは到底ならないのである。

又被告人の妻に対しては、証券会社は、一つ一つの売或いは買に対して売買報告書を作成し、これを同人に報告するが、昭和四七年度及びその他いかなる年においても年間を通じてはもとより、一定期間を区切っての損益の計算は全く行なっていない。

又同人自身もこれを行なっていない。

被告人自身は、本件査察調査開始後株式等の売買により、利益があがっているのか或いは欠損をしているのか、この程度のことを知るために、取引証券会社三社に対し出来うる限り遡って、各年間の損益計算をしてくれるよう依頼し、その回答を得、(この回答を疎明資料として添付)はじめて回答を得た七年間中昭和四七年に限り利益があがっていることを知ったのである。

又、本件の株式売買についての三つの証券会社の担当者の証言、供述調書が多数 在するがこれらは、全て、被告人の用いた架空名義による取引が、全て被告人に帰属するものであること、被告人の妻は架空名義により売買が行なわれていることを知っていたこと。

被告人は株式の売買が同人の妻によって行なわれていることを知っていたこと、の立証のためのもののみであって、被告人及び被告人の妻が、昭和四七年における株式の売買による所得の有無につき知っていたか否かという点については殆んど触れられていない。

右のことは誠に奇異に思われるが、しかし本件の捜査公判を通じての査察官、検察官の立証の意図が、被告人が昭和四七年中の株式の売買による所得の存在を知っていたか否かにはなくて、被告人の妻の株式売買を被告人が知っていたかというところにあり、又第一審、原審裁判所ともほ脱犯の犯意につき検察官の右誤った意図に沿う理解をしたため、当然右のような結果となったのである。

意外なところに根本的な欠陥が存在したというべきである。

三、被告人が株式の売買に架空名義を用いたことは、ほ脱の犯意の立証とはならないこと。

前述のごとく原審裁判所、第一審裁判所検察官が、被告人のほ脱の故意につき誤解した理由として、被告人が株式の売買に架空名義を用いたことがあると思われる。

しかし本件の場合架空名義を用いたことは以下述べる理由によりほ脱の犯意の証拠とはならないのである。

証拠上明らかなように、被告人は昭和三〇年頃投資信託を買いはじめたのであるが、その頃から架空名義を用い、いや、それ以前右投資信託を買う資金となった定期預金も無記名預金であったことが認められるのであるが、昭和三七、八年頃投資信託を売って株式を買い、以後株式の取引をするようになったが、これについても当初から殆んど架空名義を用いていた。

従って被告人は昭和四七年度の所得を隠蔽するためことさら架空名義を用いたのではない。

ここで被告人が取引した証券会社の計算書(疎明資料として添付)によって現在明らかとなっている昭和四二年(一部昭和四四年)以降昭和四八年までについて検討すると、被告人が株式等の売買により所得を得たのは本件の昭和四七年のみである。

従って被告人は架空名義を用いたか否かにかかわらず客観的にみて株式等の売買による所得を申告する義務があるのは昭和四七年のみである。その他の年度は架空名義を用いていても申告すべき義務はなかったのである。

申告義務は架空名義を用いるか否かによって生ずるか否かが決まるのではなくて所得が発生したか否かによって決まるのである。

そこで申告すべき所得が発生したことを被告人が認識することがほ脱の犯意の基本となるのであるが前述のごとく被告人は株式売買を長年の間行なっているもののこれによる所得が昭和四七年以前には発生したことがない。

従って昭和四七年以前には架空名義を用いていたもののほ脱の事実も、意思もないまま長年経過したものである。

そこで客観的には申告すべき所得の発生した昭和四七年においても、特段に被告人が申告すべき所得ありと認識した事情が存在しなければそれ以前の年度と同様に、ほ脱の意思もほ脱の事実の認識もないまま、自然に確定申告をしないこととなるのである。

そして本件記録上被告人が昭和四七年の株式売買につき、それ以前の年と異なり所得が発生したことを認識したとの証拠は存在していない。

存在していないのは当然のことで検察官の立証の意図はここになかったのである。

以上の理由によって被告人が株式等の売買に架空名義を用いたことをもって、昭和四七年の所得税についてのほ脱の意思の表われと認めることは誤りであることが理解されると考えるものである。

四、原審においては株式等売買の担当者である妻スミエに昭和四七年度における株式等の売買による所得についての認識があったとの証明がなく、又虚偽過少申告の行為者であるとされる被告人が、妻の行なった株式等売買の結果たる所得を知っていたとの理論構成も又その証明も存在しないのにもかかわらずこれを認定していること。

ここに、本件における被告人と被告人の妻との公訴事実に対する関係についてのべると、先ず第一審において、検察官が被告人とその妻を共謀として起訴したのに対し判決は、株式等の売買につき被告人の包括的委任を受けてその妻スミエがこれを行なったものと認定し、確定申告書の提出については被告人が「妻スミエとその意思を通じてこれを実行したものであるとは認められず」と認定し更に総括的に「その他本件犯行を実行するにつき妻スミエと共謀したとの事実を認めるに足りる証拠はない。」(記録三一五三丁)と犯罪行為とそれ以外の事前の行為とを分けて判示している。

右認定は、ほ脱犯の類型として、事前の不正行為を伴なう虚偽申告の場合、事前の不正行為と虚偽申告とを包括してほ脱犯の実行行為としての不正行為とみる、所謂包括説の立場をとらず、虚偽申告のみを実行行為と解し、事前の所得秘匿行為は単なる対内的準備行為とみる、所謂制限説の立場に立つものと解されるが原審の支持する第一審判決はこの立場に立ちながら前記のごとく明瞭に「……被告人は前示犯罪事実については妻スミエと共謀したとの事実を認めるに足りる証拠はない」と判示している。

そうであるとするならば、右判決の云う内容虚偽の確定申告書作成するに際して被告人自身が妻スミエの行なった株式等売買の結果としての真実の所得額(勿論、概数程度で十分であるが)を知っていて、且つこの認識に反して過少の申告書を作成したこととなる。

それでは被告人が如何なる方法によって共謀のない妻の行なった売買行為の結果としての真実の所得額を知っていたのかが問題となる。本件において株式等売買の行為者は妻スミエであり、且つ被告人は直接これに関与していないことは争いのないところである。

しかもスミエと被告人とが共謀でないとすれば、スミエは情を知らずに被告人の株式等の売買行為を行ない、そして昭和四七年度一年間の売買の結果申告すべき所得が発生していることを被告人に何等かの方法で連絡したか或いは被告人自身何かの方法でこれを知らなければならない。

しかしながら、前記のとおり右スミエ自身昭和四七年度における株式等売買の所得について知っていたとの証拠は存在しないのである。

又第一審の云う包括的委任とは被告人と妻との関係を民法的に評価したのであるが、刑法的に評価すればいかなることとなるのか当然疑問となるところである。

そして、証拠によれば売買実行者である被告人の妻自体、昭和四七年中の所得については前記のごとく、認識しておらず、まして被告人が認識していたとの証拠は存在していないのである。

しかるに原審判決は前記誤った要約の示すごとく本件においては昭和四七年における被告人の所得ありとの認識が最大の要件であるとの点を理解していないために、売買の結果である所得に対する認識の問題と、売買の結果客観的に存在した所得の問題とを混同したまま右控訴趣旨に対する判断として、四つの理由(記録三二〇〇丁)をあげて「被告人が妻スミエの証券ないし株式の取引につき無関心であるはずがなく、個々の取引については具体的に知らなかったとしても、取引の大勢については認識があったと認めるのが相当である。」(記録三二〇一丁)と判示しているのである。

しかしながら前記第一、判例違反の主張の項で述べたごとく原審の右判断は誤っているのである。

原審は以上のごとく判決に影響を及ぼすべき重大なる事実誤識を行なっているのである。

第三、原審判決には所得税法施行令第二六条第一項に関し、判決に影響を及ぼすべき法令の違反があること。

原審における控訴趣意第一点(二)の所得税法施行令第二六条第一項、第二項の問題に関する主張について、原審はこれについての事実の認定も、右規定適用の理由も示さずに被告人の本件行為が右規定に該当するとの判断を下しているが、原審は右控訴の趣意を誤解し、又右施行令を誤って適用していると思われるのである。

先ず、右控訴の趣意第一点(二)のいうところは次のとおりである。

即ち右施行令第二六条第二項には株式等の売買につき五〇回、二〇万株の制限を超える取引があった場合は課税されると定められ、比較的明瞭となっているが、同条第一項は、最近における売買の回数数量又は金額、その売買についての取引の種類及び資金調達の方法、その売買のための施設その他の状況に照らし営利を目的とした継続的行為と認められる取引から生じた所得については課税すると規定している。

そこで具体的には、いかなる株式等売買につきいかなる状態にあるときに右要件に該当すると考えるのか、これを示したうえ、何故被告人の株式等売買の行為がそれに該当すると判断するのか、それを示してもらいたいとの趣意なのである。

これに対して原審は、第一審判決に「営利を目的とした有価証券の売買を継続的に行ない」と記載されているから控訴趣意は理由がないと判断しているのである。

しかしこれでは問を以て問に答えているにすぎないのである。

いかなる程度の売買の回数、数量、金額、いかなる態様の取引、資金調達方法、どの程度の規模、形態の施設を用いた場合に営利の目的ありと判断するのか、又営利とは何か、営利とは単なる利得とは異なるものであろう、利得の目的であるならば株式の売買を行なうもの全てが持っているものである。

そして被告人の場合が何故右要件を満して営利を目的とした継続的行為と認められるのかの判断を示してこそ右控訴の趣意に対する答となるのである。

しかし原審は右答を示していない。

又具体的に事案を判断する場合に、具体的取引について右のごとく第一項に示す多くの要件についての該当性の有無を判定することは非常に困難なので未だ右第一項を適用した事例はないのではなかろうか。

そして通常は右第一項に該当する根拠として第二項に規定する五〇回二〇万株の要件をもって判断せざるを得ないと考えられているのではなかろうか。

右第二項が「前項の場合において同項に規定する者のその年中における株式又は出資の売買が、次の各号に掲げる要件に該当するときは、その他の同項に規定する取引に関する状況がどうであるかを問わず、その者の有価証券の売買による所得は同項の規定に該当する所得とする。一その売買の回数が五十回以上であること。二その売買をした株数又は口数の合計が二十万以上であること。」と要するに第二項の要件に該当するときは第一項の規定に該当する所得とする、と極めて異例、特殊な規定の仕方をしているのも、実際の事案に対し施行令第二六条を適用する場合第一項の規定はあるものの、第二項の要件を基準とせざるを得ないことを示していると思われるのである。

そうであるとすれば被告人の株式等の売買の場合第二項に規定する一回の売り或いは買いとはどれを指していうのか、通常右回数の判定の基準とされる所得税基本通達九-一五に云う「証券会社との間の委託契約ごとにそれぞれ一回」とすると、被告人の場合いかなるものを一つの委託契約と見るのか、問題が次々と生ずるのである。

そしてこの点に関し原審が判断を示さずに前記のごとき認定事実について所得税法施行令第二六条第一項の適用をしたことは誤まりであり、この点において原審には判決に影響を及ぼすべき法令の違反があると考えるものである。

以上述べたとおり原審判決には、最高裁判所の判例のない場合の控訴裁判所たる高等裁判所の判例と相反する判断をしていること。判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があること。判決に影響を及ぼすべき法令の違反があること。以上の理由によって破棄されるべきものと考える。

そして被告人に対して再度事実審理を受けさせ、公正なる裁判を受ける機会を与えていただきたいと切望する次第である。

以上

昭和五三年(あ)第一三九四号

被告人 松村四郎

弁護人葛西宏安、同服部信也の上告趣意(昭和五三年一二月二七日補充書提出)

第一、被告人の妻が行なった株式等の売買は膨大な株数、回数のため、その昭和四七年一年間の損益の結果については、被告人及び被告人の妻松村スミエはこれを認識しておらず又客観的にも認識していたとの状況は存在しないこと。

さきに上告趣意書第一、第二で述べたところであるが、本件における被告人の犯罪事実についての認識とは株式等売買による所得(即ち、株式等の売値から買値を差引き更に取引税経費等を控除した残額の昭和四七年一年間の集計数額)、が存在したことについての認識と右認識した数額に反していつわりその他不正の手段により過少の所得額をもって所得を申告するとの認識である。

そこで基本となるべき実際に存在した右所得額を本件の場合被告人がこれを認識し得たか否か、被告人の妻が行なった株式等の売買に即して客観的に検討する。

本件において右所得額の計算について検察官が証拠として提出している書証は必要最少限度のものであるが、これでさえも株式の取得価額調査(記録三五 丁乃至四二九丁)株式現場取引明細(記録四三〇丁乃至六二七丁)株式信用取引明細(記録六二九丁乃至七三七丁)銘柄別有価証券明細表(オープン型投資信託)(記録七三八丁乃至七六二丁)銘柄別有価証券明細表(ユニット型投資信託)(記録七六三丁乃至八二四丁)銘柄別有価証券明細表(公社債投資信託)(記録八二五丁乃至八五二丁)銘柄別有価証券明細表(国債社債)(記録八五三丁乃至八六〇丁)経費(記録八六一丁、八六二丁)と実に丁数にして五〇四丁にのぼる膨大な計算書類を必要とするのである。

裁判所におかれては是非右計算書類を実見され、その膨大さを認識していただきたい。

勿論、右計算書類は正確を期するために精密に作製されたため大部となったものと思料されるが、しかし、右のごとき膨大な取引数量取引価額について先ず昭和四七年期首において被告人が所有する株式等の価額を調査してこれを所得税法施行令一一八条の規定する総平均法に準ずる方法を適用して一株あたりの単価を計算し、これを総数に掛けて昭和四六年以前に取得して昭和四七年期首に所有する株式の取得原価を算出し、以下、現物株取引、信用株取引、オープン型投資信託、ユニット型投資信託、公社債投資信託、国債社債と、有価証券別に分けて、それぞれ期首価額と期中買入価額に対して期中売却価額、期末残価額を対照させ、その差額をもって損益として計算しているのである。

その結果として最少限度五〇四丁という膨大な数量となっているのである。

これだけの膨大な計算を行なわなければ昭和四七年中における株式等の売買によってどれだけの損益があったか、知ることは出来ないのである。

直接これらの計算を行なった査察官でさえも、おそらく右計算を完成するまでは果して右計算の結果、利益があがっているのか、或いは損失となっているか、判定は出来なかった筈である。

右のごとき複雑にして膨大な計算を行なわなければ結果が判明しないものであるが故に、右計算の以前においては概数としても損益の判定は、出来ないことは客観的に理解しうるところであると思われる。

しかしながら客観的には右のごとくであったとしても何等かの事由によって被告人が主観的に、申告すべき利益があがっていると認識していたのならば、右論理も通用しないのであろうが、本件全証拠を検討しても被告人が、申告すべき利益があったと認識していた筈であるとの客観的状況は全く存在しない。

例えば、銀行予金、或いは所有する株式等有価証券が期中に増加し、期首と比べて期末の方が多く存在したとか、期首に存在しなかった資産が期末には存在したとか、被告人がそれらのことを認識していたとの何らかの証拠、勿論供述調書等の証拠でもよいが、それらの証拠は全く存在していないのである。

供述証拠としては、さきに上告趣意書第二、三で述べたごとく、松村スミエ、被告人とも、一年間の損益についてはわからないとの証拠が存在するのみである。

この点に関しては弁護人でさえも、前記査察官の計算の結果から判断して被告人には確かに昭和四七年中において株式等の売買によって所得が存在したとの判断はつくが、果たして、その被告人があげた利益が昭和四七年の期末においてはどのような具体的な財産の形で存在したのか、理解しえないのである。

被告人は、実際に、株式等の売買を自分で直接は行なっていないのであるから、期末に株式等がふえたとの実感も湧かないであろうし、又、株式等の売買を行なっていた松村スミエから所有株式等の数量の増減について報告を被告人が受けていたとの証拠も全くなく、その他の財産が増加したとの状況も存在しないのであるから、被告人としては、株式等の売買によって利益をあげたとの認識を得ようがないと思われるのである。

原審、第一審とも松村スミエについては被告人との共謀を認めなかったが、株式等の売買を行なった右松村スミエにしても状況は同じことであって、同人が期首と比べて期末に何らかの形で財産が増加したとの認識を得ていたとの証拠は本件記録中に全く存在しない。

かえって新日本証券については松村スミエに無断で所謂「宙預り」と称して銀行予金口座を作成し、松村スミエの株式等売買の資金をプールし適宜調節使用していたことが明らかとなっている。(太田雅拡の第六回公判廷における証言三四二問以下)

従って被告人が昭和四七年における株式等の売買につき申告すべき利益をあげたと認識していたとの証拠は主観的にも、また客観的状況としても存在せず従って、被告人はほ脱犯の犯罪事実の主要部分について認識を欠いていたと思料されるのである。

第二、昭和四二年から昭和四八年までの被告人及び被告人の妻の株式等の売買の年度毎の損益計算の結果は、本件対象期である昭和四七年のみ多額の利益が発生し、他は昭和四四年度に僅か一四六万円の利益が出ているのみで、全部欠損となっていることから、他の年度と異なる特段の事情が認められない本件年度において、被告人が本件年度のみ申告すべき株式等売買による雑所得が発生したと認識すべき状況にはなかったこと。

被告人が昭和四七年において株式等の売買益が存在したことについて認識していなかった理由として、被告人或いは被告人の妻は、昭和四二年以降株式等の売買を行なっていたが、売買益をあげ得たのは昭和四二年から昭和四八年までの間で、僅か昭和四四年の一四六万円という少額の利益を除き、たった一つ本件昭和四七年あるのみであったということてある。

この点に関しては、被告人の昭和五一年二月二六日付検察官調書第五項、或いは第一二回公判における被告人の供述(記録三〇八五丁)にあるごとく、被告人は被告人自身で証券取引による損益を知るために野村証券、大和証券、新日本証券の三社に対して、本件査察調査の開始後、依頼して、取引開始後、全部の取引について損益計算を行なって、もらいその結果を、書類として受取ったのであるが、この書類に、前記のごとく昭和四七年のみが、多額の利益を得、他は全部欠損であるとの事実が明らかに記載されている。

右書類は、疎明資料として、今回裁判所に提出するのであるが、右書類をもとに、各年度の損益の集計を行なったものを、本補充上告趣意書末尾に添付する。

右一覧表が示すように、昭和四四年の少額の利益を除き、被告人に申告すべき株式等の売買益が存在したのは、たった一つ昭和四七年のみであることが、わかるのである。

右のごとき状況で、被告人が、昭和四二年以来、申告すべき所得が存在せずに経過していたところ、昭和四七年のみ、申告すべき所得が発生したと何をもって被告人が認識しうるであろうか、前記第一で述べたごとく特段の事情、即ち昭和四七年において株式等売買による利益が発生したことを直接何等かの形で知るとか、或いは何等かの形で財産が増加したことを知るとかの事情がなければ、被告人はこの年に限って株式等の売買による利益が発生したと認識することができないのではなかろうかと思われるのである。

しかるに前記第一で述べたごとく本件記録のいかなるところを検討しても被告人が、株式等売買により利益の発生を直接知ったとか、何らかの形で財産が増加したことを認識したとの証拠は全く存在しない。

従って被告人或いは被告人の妻は株式等売買を昭和四二年からひきつづき行なっていたものの、昭和四六年までは昭和四四年度一年限りの僅かな金額の例外を除き、申告すべき所得がなかったため、昭和四七年についても、同年中に株式等の売買による多額の所得が発生したという直接の認識もなく又客観的な、財産の増加の増加など特段の事情もないまま、申告すべき所得の発生を知らず申告もしなかったものと考えられるのである。

以上のごとく、被告人は本件ほ脱犯について、基本的に昭和四七年における申告すべき真実の所得額を知らず、従って、同人の右年度分の過少の申告にはほ脱の意思が存しないと思われるのである。

以上、上告趣意書、補充上告趣意書に述べたごとく、本件所得税ほ脱事件においては一見複雑な事件であるため第一審において構成要件のうち故意の要素である事実の認識の点について誤って把握され、これが原審にひきつがれ、誤ったまま判決が下されているのであって、このまま被告人の有罪を確定することは被告人の有罪を確定することになります。

どうか適正な法律の適用と、証拠にもとづく事実認定を受けさせるため、被告人に対し再度事実審理の機会を与えて下さるよう切望いたします。 以上

(添付書類省略)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例